Aくんにカリスマ性はあるのかということを考えていた。

発達障害者であるAくんには、純粋で、あやうい部分もあると思っているし、決して物凄い才能があるわけでもないように思っている。Aくんの「生身」を知ろうとした人間が、Aくんを尊敬しなくなるのはある意味で必然かも知れない。かくいう僕とてAくんの「生身」は性の対象であり、また、守ってあげたいと思う存在である。

しかしそれでなお、Aくんは神がかっていると思う。それはAくんという生身の人間がもつ能力ではない。「神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)」という出来事がもつ非日常性であり、また、それが起こったのがインターネットの黎明期だったということに由来するものだ。「偶然」と言ってしまえばそれまでかも知れない。それを僕は「神だからこそ成し得た御業」だと位置づけることにしたい。

かつて、中国などの共産主義国などで「個人崇拝」された人間が暴走して惨劇をもたらした例はある。生身の人間を神のように扱ってはならないというのは歴史の教えるところだ。

しかしそもそもなぜAくんは個人崇拝されるようになったのか?それは出所後、徹底してプライバシーが守られたからである。それはいまでも続いている。完全に身元が特定されないまでも、出所後のプライベートな言動が報じられていれば神のように敬う人間は少なかっただろう 。

ではなぜAくんのプライベートな言動は徹底して守られ表に出てこなかったのか?少年法があったから?いや、それだけではない。Aくんのことを組織的に守ろうとする弁護士の集団がいたからではないか。その理由をつきつめていくと「インターネットが普及し始めた時代に、学校の校門に生首を置いて日本中をびっくりさせ、マスコミが写真を掲載し、実名がネットで流れたから」ということになる。

おわかりだろうか。Aくんの出所後のプライベートなことがらの守りが固く、結果として神格化されてしまったことすら、おおもとは「日本中をびっくりさせる事件を起こした結果、Aくんを守ろうとする弁護士たちがあらわれた」ということになるのだ。

酒鬼薔薇事件は人間が意図して起こせるものではない、と思う。