ある酒鬼薔薇ファンの告白:酒鬼薔薇王国を超えて

2015年07月

太田出版は3刷25万部刷ったようだけれど、これで終わりになるような気がしてきた。

6月08日~6月14日 67,041部 
6月15日~6月21日 24,839部 ←初版10万部が売り切れ品薄になる 
6月22日~6月28日 30,369部
6月29日~7月05日 22,841部 
7月06日~7月12日 11,203部
7月13日~7月19日 8,131部

両親が書いたのは120万部に達したはず。本人が書いたのが25万部で終わりそうな原因を出版不況のせいにする意見もあるが、俺は6月23日の山下京子さんの声明がトドメを刺したと思う。

Aはオモテに出てくるつもりはない。
僕はオモテに出ろという主張を曲げるつもりはない。
したがって、両者が連絡を取り合うことはない。
ということで良いんじゃないか。

個人的にAに会ってみたい気持ちがないわけではない。
けれど、僕がAに会いたいと思う理由って「ろくでもない」ものしかないのね。
その「ろくでもない」理由のためにオモテに出ろという主張を曲げたなら、これは生涯の恥になる。

殺人より酷いこと?

『絶歌』出版が殺人より酷いことだとは思わない。

事件のときのような心境で書いたのだとしても、現実の殺人に比べれば、はるかにたわいないことだ。

しかし「頭の中身が14歳のままのひとが外道の出版社におだてられながら書いたギャグみたいな本」という見方があるということは言っておいたほうがいい。

さまざまな文章の書き方がある。
Aは第1部を書きながら「酒鬼薔薇というキャラを演じている」という意図をもっていたであろう。
そこは微塵も疑わない。

しかし、なぜそんなことをするのか?

なぜ32歳の大人が14歳の頃を振り替えるのではなく、14歳の少年のキャラを演じようとしたのか?

そこで「ギャグでやっている」「ふざけている」という解釈が出てくるのは当然のことだ。
30歳過ぎたオッサンが、14歳の仮面をかぶってでてきたら「ふざけている」「それはギャグでやっているのか?」と思う人がいて当然だ。

そして、不謹慎系の笑いが取れるのである。

編集者はAのことをおだてながらも、腹のなかでは笑い者にするつもりだったのではないか?

現在進行中の彼女がいて、その彼女のために書いたというのならわかる。
最初に読んだときは「現在進行形で年増の女性と恋 をしていて、結婚も考えている」ということだと思った。
「男児を殺して射精したけれど、実は最初はばあさまが好きだった」ということを明かし、印税とともにゴールイン。

しかしこれがもしも現在進行形で彼女がいなくて「出所後に付き合った昔の女に会いたかった」とかいう理由で書いていたとすると気持ち悪いよなあ。
ものすごく気持ち悪い。

Aのサディズムが治ったか治っていないかということに焦点をあてるジャーナリストがいる。
国がそういう方針で特別なチームをつくったからだ。
その成否を問うのはあながち間違っていない。

しかし僕はそもそも「サディズムの治療」という方針がとられたことが正しかったのかということを議論したい。

僕はAが性欲を抑制できないタイプだとは思っていない。
もし生来、性欲を抑えられなかったのなら、出所後にとっくに再犯で捕まっているはずだ。

Aが育った当時、日本には発達障害に対する理解も支援もなかった。
それがAに死んでもよいという思いを抱かせ、おぞましい性欲を解放させた。
これが僕の解釈だ。

サディズム自体は、合意のうえでの行為であれば問題ない。
首を絞める側がサディズムを満たし、絞められる側は酸欠による恍惚感を得る首絞めセックスというジャンルがあるらしい。
(僕にはちょっと理解できない。)
合意のうえでも、加減を間違えて事故になることがあるらしい。

『絶歌』を読んだだけでは、出所後のAの性は分からない。

読み方によっては、サディズムは寛解せず、ただそれを押し殺して生きてきたかのように見える。
あるいは一方で祖母(の遺体)で自慰にふけったことを告白したのは、年増の女性を好む傾向があることを吐露したかのようにも見える。

出所後のAの女性関係については、様々な情報が乱れとんでいる。
いまさら何が出てきても驚きはしない。

Aよ、自分から、すべてを語れ。

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